2016年3月21日月曜日

お斎(とき)

きょうのお斎の御膳であります。午後からは太子講、住職がおはなしします。

2016年2月8日月曜日

お寺で人生相談!?

 お寺も葬儀式や法要だけでなく仏教の教えを活かすはたらきが必要だねと、いう家人とのはなしのなかで「お寺で人生相談したらどうかね?」という話がでました。人生相談!どういう人生相談になるかと想像してみました。

 そもそも人生相談とは、問題にたいして「どうしたらよいか」を問いにゆくものだと考えます。すなわち、相談の根っこには「どうしたら」英語でいう「How to ?」が埋まっているのです。そして、相談の先には、目標達成とか、問題解決とか、いわゆる自分の望んだ通りになるという終着点が設定されているのであります。

 それで、仏教の教えは、その「どうしたら」を離れることを目標とするのです。自分の望んだとおりにならなくても大丈夫になることを目指すのです。すなわち、問題を解決する方法を相談に来たのに問題を問題を問題ではないことに転化してしまうのが仏の道なのです。ですから、もっとお金もうけしたいと相談に行ったのに、お金がもうからなくてもよくなるというようなもので、「どうしたらよいか」に強く固執しているひとほどキツネにつままれたようで、釈然としない結果になるかもしれません。だから、お寺で人生相談をやってもあまり活用されないかもしれないです。ほんとうは、相談ごとというのは、「こうしたい!解決したい!」という欲求に火をつけるほど流行るものなんです。たとえば、「年をとりたくない」というひとは「こうしたらいい」がどんどん出されると熱中して熱くなる。そして、その熱中してアンチエイジングに励んでいる間だけは加齢する苦を忘れることができる(スピノザさん談)。ほんとうは加齢を止めることなんてできないとわかっているはずなんですが、いつか望んだ通りにならなくなるときが来ると知っているはずなんですが、とにかく人間は苦を忘れたいんです。それに対して、仏教は加齢しない方法を教えるんじゃなくて、まえむきに加齢してゆくことのできる自分をつくる。だからある意味問題解決になっていないかもしれないし、ある意味究極の問題解決でもあるわけです。

 だから人生の苦にたいする予防として、普段から仏法を聞いてもらうのがいいと思います。親鸞さんは教行信証の信の巻のなかで、まず聞きなさいと説かれています(聞)。そして、いまの自分に照らし合わせて考えてみなさい(思)と説いております。真宗の仏道は聞くことだいいちであります。まだ努力によって解決できる余地のある相談はいちばんしっくりしないのだと思います。もう少し努力すればなんとかなるとわかっているからです。だけれども、万策尽き果てて、もうどうにも解決できない、自分の望んだ通りにすることができないと行き詰って絶望したら、ふたたび仏法が効いてくると思います。絶望は阿弥陀さんからのよびかけです、「ほんとう」のすぐそばまで行っているから絶望するのです。そこで、阿弥陀さんは「もうちょっとこっちへおいで」と呼びかけます。自力(自分の都合)を捨てて他力で成り立っている「ほんとう」に着地しなさいと呼びかけるのです。

2016年1月1日金曜日

としこし。

くらいですね、2015年12月31日、除夜の鐘です。

11時半から1時頃まで、ご門徒さん、近所の方々がポツポツ鐘をつきにいらしてました。

そして、その本念寺除夜の鐘でくばります、「煩悩饅頭」。この世で本念寺の除夜の鐘以外食べることのできないおいしいお饅頭です。煩悩を流すんじゃなくて、食べる。食べて煩悩をつけて年越し。阿弥陀仏の誓願にひかれて仏道を歩むのには煩悩おそるるべからずであります。住職デザインの「煩」の字がおされております。次に食べるチャンスは一年後。

2015年9月23日水曜日

あさ、報恩講の準備

本日より3日間(26日もいれると4日間)本念寺報恩講であります。

報恩講初日、23日はあさの6時から準備ではじまります。

おー、高いところまであがりますね。

2015年9月15日火曜日

南無塾、大丈夫そう。

明日、2015年9月16日19時から予定しております「南無塾」(仏教で考える、仕事とわたし。)は予定どおりに行います。本念寺 住職 飯貝 孝介。
場所は、〒925-0122 石川県羽咋郡 志賀町倉垣1 6 倉垣集会所であります。

現在時刻は 9月15日4時11分。

2015年6月26日金曜日

ひさしぶりに。

 まったく更新が滞っているなぁと、たまに気づいてはいたけど、モォ10ヶ月も放置だったのですね。羽咋幼稚園のブログと、わたくし個人のツィッター、本念寺のブログと、3つはやっぱりナマケモノに荷が重い。はじめて7年目になる「ブログはくい幼稚園日日」は今年度に入ってものすごぉいアクセス数になっていて、はじめたときの想像を超えたのです。なんせ、初年度の投稿が7年かかって得た最高閲覧数(7821)を今年度の4月1ヶ月(9269)がすでに上回ってる。だから、今年は幼稚園ブログにかかって他がなかなかできない。理由はきっとスマホの普及だと思いますが、見られていると思うとおろそかにできない。それで、凍結状態だった本念寺ブログもいいわけをかねて更新しています。
 仏教とはいったい何であろうかという「問い」。先日お聞きした本多弘之先生のお話では「衆生を助けたいという願い」とおっしゃっていました。お経には、お釈迦さまが直接説かれたことを弟子の記憶で経典にしたとされているもの、ずっと後でお釈迦さまが説いたことにして創作したものではないかと言われているもの(真宗の浄土三部経はこれにあたります)があると言われておりますが、どれが本物だなんてことが大事なんじゃなくて、衆生を助けたいという教えが記されているかが大事なんだということでした。お経がつくられたのはもう2000年あまりも昔、大昔のこと、どれが本物かを基準にしても仕方ないわけです。お釈迦さまの直接説かれたことこそが本物だなんて言ってしまうと、釈迦絶対主義になってしまう。釈迦絶対主義だとお釈迦さま自身が説かれた「すべてのものを疑いなさい、仏法でさえも」という姿勢から逸脱してしまう。だから、親鸞さんもおっしゃっておりますが、釈迦諸仏の説かれた仏教を拠り所にするというのが仏教だと思うのです。
もうひとつ、私が思いついたのか、何かの本で見たのか、ハッキリしませんが、仏教は「生き方」だと思います。人間生きていれば迷うことばかり、どんなふうにふるまって、どんなふうに判断したらいいかわからない。数学や英語、国語、理科、社会、学校で習うことは明解な答えを示してくれますが、生き方は教えてくれない。それを聴くことができるのが仏教、いや世界の宗教はそういうものだと思います。
だから、仏教を聴くことがオススメです。娑婆で大事に心がけていたことが仏教からみるとあさっての方向かもしれない。一度だけ生きるのです、お釈迦さまに始まる智慧を聴いてはいかがでしょうか。

2014年8月22日金曜日

ツィートから

仏教のことを哲学だと私は以前言っておりましたが、仏教は宗教だと思います。哲学的な深い探求のうえに成立した宗教です。哲学というのは理解しないとはたらかないのです。哲学を聞いてチンプンカンプンのひとは救済の外です。→

→宗教は全てのひと、学力、体力、財力、権力に関係なくはたらいて宗教です。だから頭で理解しないままでもはたらくことが不可欠な条件です。自分では量ることのできないものを信じる、すなわち南無阿弥陀仏です。→

→だから同時に危なっかしいわけでもあります。変な宗教を盲信したら大変なことになった!って話はよくある話です。だけどね、自分で理解したとして、それが正解なのか間違いなのか人間である以上わからんのです。自分の理解自体が間違っている可能性もある。→

→宗教を信じたほうが心は安定します。これは最近特に思うことです。人間が自らの知識に依って、考えて判断することには限界があるんです。自分はどうして存在するのか、そんな根源的な問いを抱えて日常を生きるのはとても心の負担が重い。これは心理学者の河井隼雄さんが言っておられました。→

→だから宗教があるほうが楽で安定しているとおっしゃっています。あ、と、は、変な宗教にひっかからないこと。そこが難しい。だって宗教は自分でわかって判断することのできないものだから。頭で理解して変な宗教を避けることはきっと不可能だと思います。→

→変な宗教から身をまもりながら宗教に接してゆく、これがこれから必要なのではないでしょうか。その唯一の方法は疑うことだと思います。疑いながら教えを聞いて間合いを計っていくわけです。親鸞さんが師匠の法然さんのところに百日間通って後入門する、これは疑っていたのだと思います。→

→自分で疑って、疑い抜いて教えを聞いたら、あとは身投げするように信じるしかないわけです。その心を親鸞さんは騙されて地獄に堕ちても悔い無しと言っておられる。なるほどなぁ、もの凄いことだなぁと思います。でも、とりあえずは「信じよ」って言って来る宗教が怪しいという根拠にはなりますね。